絞り・有松絞り・着物・浴衣・和服・竹田庄九郎|株式会社 竹田嘉兵衛商店

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有松絞りの歴史

有松の始まり

現在の有松地域は江戸時代のはじめには人家の無い荒地であったためこの地域を通る東海道の治安に支障をきたしており、尾張藩は人の住む集落を作るために住民を募り1608年(慶長13年)東海道沿いに新しい集落として有松が開かれた。しかし、有松地域は丘陵地帯であるため稲作に適する土地ではなく、また鳴海宿までの距離が近かったことから間の宿としての発展も望めなかった。そこで有松に移り住んでいた住人の一人である竹田庄九郎が、1610年(慶長15年)から1614年(慶長19年)にかけて行われた名古屋城の築城(天下普請)のために九州から来ていた人々の着用していた絞り染めの衣装を見て、当時生産が始められていた三河木綿に絞り染めを施した手ぬぐいを街道を行きかう人々に土産として売るようになったと言われている。
有松での絞り染めが盛んになるにつれ、鳴海などの周辺地域でも絞り染めが生産されるようになっていったが、この状況に対し有松側は尾張藩に他地域における絞り染め生産の禁止を訴え、1781年(天明元年)尾張藩は有松絞りの保護のため有松の業者に絞りの営業独占権を与えた。ただし、絞りの生産が全て有松の町で行われていたわけではなく、鳴海を含む周辺地域への工程の下請けが広く行われていた。独占権を得た有松には現在につながる豪壮な町並みが形作られた。その後も絞り染めに対する統制は強化され、有松は尾張藩の庇護の下絞り染めの独占を続けたが、幕末になると凶作に苦しむ領民の生活扶助のため独占権が解除された。明治に入ると鳴海や名古屋、大高などの周辺地域にも絞り染めを扱う業者が現れるようになる。愛知県以外でも全国各地で絞り染めが生産されるようにもなり、東海道が交通の中心から外れたことも影響して有松の絞りは衰退期を迎える。しかし、明治の中ごろ以降は販路の拡充や新しい技法の開発などの努力が実り、生産量も増加、かつての行政上の特権は失われたが、新技法の開発と共に特許の取得も行われ、これらの特許に守られて有松絞りは全盛期を迎えることになる。
第二次大戦中には戦時統制が強化されて原料が入手できなくなり絞り染めは衰退するが、戦後に統制が解除されると復興し、社会にゆとりが生まれると共に生産量も増加した。しかし、昭和の中ごろを過ぎると着物離れや安い中国製の製品との競争、後継者難などから生産量は減少し、現在ではかつて100種類を越えた技法も大きく数を減じている。一方で、1975年(昭和50年)9月に愛知県内で初めて伝統工芸品に指定された他、第一回国際絞り会議の開催(1992年(平成4年))と「ワールド絞りネットワーク」の設立、新素材を用いた製品の開発や国外の見本市への出品など有松・鳴海絞り振興のための取り組みも行われている。

絞の始まり

有松町史によれば「慶長十五年(1610)名古屋城築城の頃、築城に参集してきた諸藩の人々の内に九州豊後(大分県)の者が珍しい手ぬ ぐいを持参していることに気をとめた竹田庄九郎がその製法のヒントを得たと言い伝えられているらしい。
当時東海道は、京と江戸を結ぶ幹線道として、ようやくその重要性が認識され、 尾州藩の基礎も次第に固まりつつあった。移住してきた人達はまだ第一陣八名、 第二陣七名、合計でも十五家族と少なく、周囲の耕地も乏しく、農業で生計を立てる までには到らなかったものと考えられる。新設されつつあった東海道の築造工事人夫として働き、街道筋の軒先で「ワラジ」などわずかな品を売り、屋敷廻りで取れる少しの作物を口にするありさまであったと推測される。この窮状をみかねた幕府は、移住させる時の条件であった譜役免除のほか、記録には見られないが、たぶん米麦の実物支給も相当の期間実施したのではなかろうか。
第一陣が来村してから十数年が経ち、何とか飢えることなく、十五家族の生活に見通 しが立った慶長二五年(1620)過ぎ頃、第三陣を呼び寄せることにしたのではなかろうか。この頃には大阪夏の陣が徳川の勝利で終わり(1620)、世情も安定に向かい出した頃と事情が一致する。第三陣はこの安定を見た上で寛永二年(1625)、阿久比から呼び寄せたものと推測出来る。この時、先住の一五名は尾張藩に対し、一層の優遇策として譜役務ご免と米麦の尚しばらくの支給延長と、家屋の建築用材の支給を願い出て許可されたものと考えられる。移住させてから十五年以上が過ぎ、実直に精を出す村民をまのあたりにした尾州藩は、それまでの労にむくい、何よりも家康公の初志である生母の住んだ阿久比の人々に恩義を返したい、との願を新村有松に注いだものと考えられる。神君家康公の遺志をここに返す為との特例を表看板にする新村優遇策に異を唱える者などあろう筈もなく、この優遇策は維新まで機能し続けたもののようである。 更に第三次移住までに第一陣の人々の内、「竹田庄九郎」の努力の積み重ねによって、「括り染め」の試作改良も進み、軒先での販売も除々に増大してきたので移住に踏み切ったものと推測される。生産と販売の見通 しを立て、藩に庇護を願い、万全 の対策を建ててから呼び寄せる手だては見事というほかはない。(この周到な配慮に竹田庄九郎の手腕・人柄が偲ばれる。)
生産に用いる木綿布は、当時は知多郡一円や伊勢国、藤堂藩(現松坂市)方面 から、 染料の藍は阿波国(現徳島県)から仕入れたが、わずかな仕入れでも現金を必要とした筈で、その支払い保証も尾州藩が肩入れしてくれたものかも知れない。
阿久比から移住してきた第三陣が腰を落ち着けた寛永十年(1633)頃から、有松絞りが全村挙げて取り組み始められたと考えられる。
東海道に町人が数多く通りはじめたのは寛永十五年(1638)頃からで、伊勢参りが全国的に流行のきざしを見せ始めるが、この少し前頃から参勤交代の制が確立したようである。諸国の大名が、江戸詰めを終え、帰国する時に有松に立ち寄り、国元への土産として絞の反物や手ぬ ぐいを買い求めたのが有松を有名にした始めという。
この頃はすぐ西に鳴海宿があったため、広く全国で、有松絞りに代わり「鳴海絞り」といわれたらしい。また、店先で品定めをし、数量 を伝え、宿の鳴海へ届けるような注文も多かったと伝えられている。(鳴海宿に有松絞りの取次所があった模様である。) 絞り染めとは、他の染色法のように糊や蝋などを用いて防染するのではなく、布を糸で括って染料につけ、防染するものです。つまり、生地にシワやヒダを寄せ、その部分を糸で絞って染液につけ、取り出してシワやヒダを伸ばすと、その部分だけが染まらずに模様となって残る染色方法です。
その発生は、紀元前までさかのぼり、世界各国でほぼ自然発生的に誕生したといわれています。日本では、日本書紀にも記載され、当時すでに幾つかの括り技法によって相当数の絞り染めが創られていたということです。正倉院に伝わる染織品の中に、三纈、すなわち纐纈(絞り染め)、夾纈(板締め染め)、蝋纈(ろうけつ染め)のひとつとして高度な技法を用いられた遺品が残されているものも絞り染めが古くから愛用されていた証明でしょう。
絞り染めは、絞りの仕方(シワやヒダの寄せ方)ひとつで、さまざまな模様を創りだします。生地をつまんで糸を巻いたり、ヒダを取って糸で縫ったり、棒に布を巻きつけてその布を押し縮めたり、いろいろな方法があって、それによって違った模様に彩られます。
その技法は、多種多彩。世界中で現在100種が認められていますが、そのうち90%は日本で発達した技術です。また分布は、世界中のあらゆる地域で見られ、インドやインドネシア、南アメリカ、アフリカなどでは古来より盛んに染められてきました。しかし、あまり手の込んでいないラフな絞り染めが多く、日本のように精緻で、複雑な模様を作りだす例は、他国ではわずかしか見られません。
例えば、総鹿の子絞りの振袖は、絞りの粒数が約20万粒もあります。それを一粒一粒手で括り上げるのですから、気の遠くなるようま手間と根気がいるのをお分かりいただけることでしょう。手先が器用で、根気強いといわれる日本人ならではの至芸の技といえそうです。
その中でも、有松絞りは、開祖の竹田庄九郎翁より新しい技法を工夫、改良する精神を受け継いで、他の産地を圧倒する数多くの新技法を次々と開発し続け、染織工芸文化の華ともいうべき華麗な衣裳美を咲かせてきました。

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